昭和40年02月04日 朝の御理解
昨夜の御理解に食う為に嘘を言うた、飲む為に例えば罪を作ってでも、飲まねばならんという、所謂飲み食いをする為と言う事は、まあ生活をすると言う事だと思うんですけども、生きてゆく為に生活の為になら嘘を言うてでも罪を作ってでも、いわば手段を選ばんでいこうとする人達があまりにも多いと。信心頂いておりましてもその所がある。分かっておって分かっておらんのと同じ様な、生活をしておると言う様な意味の御理解を頂きましたですね。
夕べの御理解をもう一辺その聞いて下さったら、もっと分かると思うんですけれども、そういう生き方ではなくてです、このせっしゅ摂取していくと、食べていくとではなくて、あの食べさせさにゃおかん、飲まさにゃおかん。という働きの中に生活させて頂く、生きていくと言う事が、信心生活だという意味の事を申しましたですね。食べささずにはおかんと。飲まさにゃおかんと、生かさにゃおかん。
という働きの中におかげを蒙っていくから、どうぞお願いしますと言うのではなくてですたい、そういう働きの中におかげを頂いていけれるから、有り難い事じゃなぁと、勿体無い事じゃなぁと、信心も出来んのに相済みませんと。言った様な日々が送れるのだと。そういう生活を、願っての信心でなからなければならないと、言う様な意味のご理解だったんですね。その為にはその矢張り働かなければならないと。
実意丁寧忠実にです、本当に働くと所謂端を楽をさせる所の、端を楽をさせる事の働きと言う様な。昨夜御祈念を終わりまして、少し風邪をぎみだもんだもんですから、私昨日お風呂も入ってなかったし、食事も頂いてなかったんです。さてここ下がってから、10時、えぇ10時半もやんがてあったでしょう。それからお食事させて貰いました。久富先生と繁雄さんが、残っておられましたから、今日はもうおかゆさんじゃないから、御飯が温めてございました。
それで熱いおつゆなんかが出来てから「繁雄さん貴方も一杯お付き合いなさい」と「もう夕御飯頂いて来たとですけど」「まあそう言わずに一杯頂きなさい」ていうてから、まあ頂いてそのあげたんです。久富先生も御飯をなら気がねよって一杯ついでこんかとというてから一杯、そのお茶代りに久富先生にあげて、まあ頂きながら言うんですね「はあ今晩の御理解は、あんた達はもう地でもう、行きよんなさるですたい。食べさにゃおかん。飲まさにゃおかんと。
これが本当の飲まさにゃおかん。食べさせにゃおかん。と言う事ですじゃろな」と言うて頂き終わったんです。さあ頂き終わって私あの風呂入って、すぐ休む積り所が、頭がビシビシ痛むんですね。とうとうだからお風呂も入らずに休ませて貰いましたんです。ですから頭が痛い、ビシビシ痛むものですから、それを久富さんが結局まあ、頭をおさえて下さったりして、足を揉んだりして下さったり、してから11時ちょっと過ぎ帰られました。その後で思うですね。
飲まさにゃおかん。食わさにゃおかん。と言う様な働きの次には必ず働かさにゃおかん、という働きがあるなと言う事です。それを又言葉を替えて言うならばです、どうぞ信心しておかげを受けてくれよという、働いてくれよという願いです。ここの所を大事にしなければ、そのおかげにならんなと言う事。私そして休ませて頂いて頭押えて貰ったら、すぐおかげ頂いてから休ませて貰いましたから、あの今朝までぐっすり、熟睡のおかげ頂いているんですね。
ははぁ成程これはこのおかげ頂きましてですね、日々私達があの神様のおかげを頂いてです、食べさにゃおかん。飲まさにゃおかんと言う様な、頂かれる様なおかげの頂かれる様な働きをさせて貰う。今日一日御商売の上にでも、ね、お百姓の上にでも家庭の御用の上にでもね、食べんならんから働くというのじゃなくてですたい、しかもそれが為には嘘をいうて駆引きしてもです。
少々ずるい事をしてもです、ね、人のいわば茶碗を叩き落としてからでも、いわば食べる為に飲む為に生きていくという人達の、多い世の中にあってですたい、ね、信心させて頂くものが、本当に同じ働きが形の上においては、同じでも内容が違う。わら一本作らして貰うでも、家庭の御用させて頂くでもです、端の者が楽する事の為に、一生懸命奉仕をする働かせて貰うと。
是で私はあの今朝から思わせて頂くんですけども、お互い日々がですあの飲まさねばおかん食べさせねばおかん、と言う様なおかげを頂いておるその御礼の印に、今日一日の働きがなされると言う事に、ならなければならないと言う事ですね。さあ今日一日もこうしてお生かしとのおかげを頂いて、所謂その飲まさにゃおかん。食わさにゃおかんと言う様な働きの中におかげを蒙っておるのであるから、その御礼の御礼の為にです、今日一日働かせて頂くと言う事になったら、私大変な有難い事になるなぁと言う事です。
さあ今日も一日、まあ生きる為に働かんならん。食べるため飲むために働かんにゃならんと言うのではなくてですね。そのおかげを頂いておろうがいわば、先手先手をもっていくと言う様な生き方。そういう生き方が出来たら、本当に理想的な信心生活が、出来るんだなぁと言う事です。果たして今日一日が本当に御礼のための心行であり、御礼のための御用であると言う様な、一日であったであろうかとまあ一日を振り返えらせて頂いてから思わせて頂く時です。
ぎこちないいやそこにもここにも、嘘があったり手段を選ばなかったりと言った様なことのない、ものがあるとするならばです。謙虚に詫び抜かせて頂く所の、信心がなされていかなければならないなぁと言う事。皆さん本当にそういう気になって、ひとつ今日一日の御用を頂いてごらんなさい。御礼の御礼の為の今日一日であると。御礼の為の働きである。そこにはです私はいかがわしい、いかがわしいとは可笑しい事ですけど、不忠実な事は出来んと思います御礼の印ですからね。
実意でならなければおられないと、思いますね。御礼の印ですからね。そこで又食べさにゃおかん、飲まさにゃおかんという働きがあるでしょう。私はその昨夜の事からです、そういう確かに飲まさにゃおかん、食べさねばおかん。という働きのその次にはもう早速、神様がですどうぞ働いてくれよと言う様な働きが始まると言う事、よう信心しておかげをうけてくれよという働きが始まると。
だからそういう働きをです見事にキャッチして行く為にです、神様の願いを願いとしてその神様の働いてくれよという。そのまあ願う前にこちらの状態がです、御礼の為の働き御礼の為の働き、日々がこの生き方でいかせて頂ける様になったら、有難い事だろうなぁという、まあその先が夕べの御理解を頂いてからまあ早速、そこに食べさにゃおかん飲まさにゃおかんと言った様な、ちょっとひなびた様な事がありましてですね。
その後に早速この次ぎには、働かさにゃおかん、と言う様な働きを、私は感じたんです。それで今朝から私思わせて貰うんです。働かさにゃおかん。と神様が願われる前にです、こちらが御礼の印に、御礼の為の今日一日でありたいと言う様な、日々こそです本当になんと言いましょうか、卍巴(まんじどもえ)とでも申しましょうかね、働かさねば働かさねばおかんというそこにはちょっと、なんですけども。食べさにゃおかん。生かさにゃおかんという、その働きが先か、ね。働かさねばおかん、どうぞおかげを受けてくれよという働きが先か、どちらが先とも言えないですね。
いわばその繰り返しがです。一コマ間違えるとです反対になってくる。ね、さあ今日も又食う為に働かんならんと、言う事になって来るんですから、ここの所の調子を一つ、愈々それがスム-ズにていうかね、もうそれが平生のこととしてです。今日一日が神恩報謝のために、働きと言う事になっていく生活を頂かせて頂いたらです。ね、所謂神様の願いというか、神様のその理想に近い信心が、段々出来てくるんじゃないかとこう思います。 おかげ頂きました。